若宮氏館

別名-  付近住所 滋賀県米原市飯 現在 若宮公園
2007/12/22 碑・案内板アリ


若宮氏  京極氏(後に浅井氏)の重臣「若宮氏」の居城とされ、館の堀跡と見られる「水路」のみが現存している。若宮氏については、佐々木南北諸士帳や高知県大脇文書等に記載されている。昔から「若宮仲間」があり、遺領の土地や位牌を守り毎年法要を行っている。戦国時代で有名な山内一豊の夫人「千代」は当若宮氏の出とされる。

「若宮まつと若宮外記仲間」
 八幡神社を造営した若宮左馬助(浅井長政の家臣・飯村屋敷主)の一人娘「まつ」(1563〜1639)は4歳の時、父左馬助が、永禄9年(1566)に戦死した際、男子の相続がいなかったため、その所領を「まつ」が相続した。父の亡きあと、「まつ」は、若宮家の家臣に育てられ、成長した「まつ」は、織田信長の4男で豊臣秀吉の養子であった羽柴秀勝の家臣赤尾孫助と結婚するが、天正12年(1584)小牧・長久手の合戦で討死してしまう。
 この年「まつ」は、孫助の子「志よろ」(1584〜1628)を長浜で出産する。
 「まつ」は、「志よろ」と左馬助の家臣4名を連れて、長浜城主山内一豊の重臣五藤為浄吉兵衛の弟五藤為重(1557〜1629)と再婚する。
(注)五藤為重は、天正13年冬の長浜大地震の際、見性院(一豊公室・千代)を真先に救出した由、五藤家系譜に記載。
五藤家は天正18年山内一豊と共に掛川に移り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て土佐に入国した。「まつ」は寛永16年(1639)77歳で安芸に永眠。
 後に「志よろ」は、五藤為重の跡を継いだ五藤外記正友(1586〜1676)長浜生まれと結婚する。(正友は、為重と側室との間に生れた子)
(注)五藤外記正友の幼名「出喜」は、一豊公から直々に命名されたもので、元服の際には「外記」と改名された。
五藤為重は、山内家に次ぐ五家老に列し、五藤家は明治維新まで300年間山内家の家老として続いた。
 一方、飯に残った若宮家の家臣は「若宮外記仲間」として若宮家の所領を守り、現在も追悼法要しつづけている。

      

                     
                             坂田駅前の山内一豊公・千代像